門前に荒木又右衛門之墓の石碑があります。その隣りは鳥取藩の絵師・黒田稲皐という方の石碑です。
山門を入るとすぐ左側に玉垣で囲われた墓地があります。それが荒木又右衛門の墓地です。さらに又右衛門の墓地の左奥には荒木家子孫のお墓が並んでおり、現在も子孫の方がご存命です。
戦時中には又右衛門の武運にあやかり、戦地に行く前に参拝し墓石を削りお守りにした人があったという言い伝えがあります。
それを防ぐとともに、墓石の倒壊を防ぐため竿石の周りを金網で覆っています。
錆びのため見にくくなていますが、正面には伊州阿拝郡荒木又右衛門尉保和生年四十歳、寛永十五戌寅暦八月廿八日、秀譽行念禅定門と又右衛門の生誕地、行年、戒名が刻まれています。
荒木又右衛門は三重県伊賀市荒木村の出身で、服部家に生まれましたが、後に地名を取り荒木姓を名乗ったとされています。荒木村から一山越えた所には伊賀忍者の里として有名な服部村があります。
又右衛門の父服部平左衛門は、藤堂藩主藤堂高虎、その後淡路藩主池田忠雄に仕官し、忠雄が岡山藩へと移封となった際岡山へ随行し、その後間もなくして病死しました。平左衛門が淡路藩主をしていた頃又右衛門は忠雄の小姓をつとめていましたが、間もなくして辞任し生まれ故郷に帰っています。
その後しばらく又右衛門に関する記録は途絶えますが、寛永2年(1625年)、大和郡山藩(奈良県北部)の剣術師範役へ抜擢され250石を与えられており同年、懇意であった渡辺家みねと結婚しています。その後娘にも恵まれ家族は奈良の地で円満な暮らしをしていた又右衛門でしたが、寛永7年7月21日、岡山城下で起こった義弟渡辺源太夫の殺害事件により、仇討ちへと参戦する事となります。義弟渡辺数馬(源太夫の兄)から助太刀を依頼される荒木。当初は断り続けていましたが、岡山藩より上意討ちのお達しがあり荒木は助太刀を承諾し約1年半の放浪の旅の末、仇討ちを成し遂げます。
上の写真は荒木又右衛門の塑像と製作者の写真です。大正時代、鳥取の武術家であり教育者であった松田秀彦氏が発起人となり銅像建立の働きかけがありました。鳥取城跡が残る久松山(きゅうしょうざん)の麓に設置を計画していましたが、戦時下でもあり計画は中座し、銅像の鋳型である塑像ができあがった時の写真です。使用していた刀の長さから考えても大柄であったことが窺えますが、身長180cmもの大男であったとされています。
山門をくぐり右側には又右衛門が実際に使用し、荒木家子孫に継承されたと伝わる遺品類(刀、鎖帷子、御守、仇討始末)を展示保管しています。また江戸時代から現代に至るまでに作られた大衆芸能に関する作品(浮世絵、講談本等)や娯楽品(小説、マンガ、スゴロク、映画のポスター、雑誌の付録等)を展示しています。。
昭和58年にオープンし、その後平成29年に改修リニューアルをしました。
左の写真は荒木家子孫に継承されてきた又右衛門の遺品コーナーです。左から御守り、鎖帷子(くさりかたびら) 、決闘で使用した2本の刀、そして仇討ちの概要が細かく記された仇討ち始末などが展示されています。
渡邊数馬らと共に仇討ちを成し遂げると、決闘の地を統治していた藤堂藩、荒木が剣術師範として在籍していた大和郡山藩、そして仇討ちの発端となった岡山藩(岡山・鳥取国替えの為仇討ち後は鳥取藩に)、この3藩が荒木の身柄引き取りを懸けて話し合いが持たれます。最終的に鳥取藩が権利を勝ち取った形となり、厳重な警護の下、荒木は鳥取へ迎えられます。ところが鳥取に到着しわずか2週間で亡くなっています。鳥取藩史にも死因が記載されておらず謎のままとなっています。行年40歳、鳥取藩の面目を保ち、兄弟の義理を通しその生涯を終えた又右衛門は、今もここ鳥取の地で静かに見守ってくれています。