玄忠寺は、鳥取市の市街地に位置する浄土宗寺院です。過去、火災や城郭整備のため移転を繰り返し、現在地に越してきました。その経緯を左記の古地図(鳥取城下之図、慶安3年(1650)頃作成)をもとにご紹介します。
当山系図書によると、寺の創建は永正5(1508)年、深心大忠大和尚による開山と伝わります。当時は鳥取城に近い湯所町高浜地(現在鳥取北中学校がある付近。地図の①)にあり、庵寺のような形態ではなかったと思われます。
その後城郭拡張整備のため矢野地(材木町、地図の②)、玄好町(地図の③)へと移転しました。玄好町にあった際には、周りを池で囲まれ、『鳥府志』(江戸時代に作製された地誌)に「廻りに池を巡らし中嶋の如くにして佳景の境地なり」と記載され、鳥取名所八景の一つに挙げられています。
剣豪荒木又右衛門が亡くなったのもこの時期となります(1638年又右衛門死去)。
その後万治3年(1660)、鳥取市内薬師町で発生した大火災により類焼し全焼。伯耆街道から城下に向かう玄関口にあたる現在地(新品治町)へと移転しました(地図には掲載していません)。又右衛門の墓は鳥取藩士により移送されたと伝わります。新品治町に移転後、藩政史料『家老日記』の中に玄忠寺に関する記載が多く散見されます。
武士の世が終わりを告げ明治時代に入ると、学制が令布され、廃仏毀釈の煽りを受け多くの寺院が官有地として土地を没収されました。玄忠寺の庫裡も明治5年から25年まで小学校の校舎として使われました。玄忠寺は鳥取県内初の小学校(現在の富桑小学校の前進、進良小学校と呼ばれていた)となり、多い時には300人以上の生徒が通っていました。
その後時代は流れ、昭和58年、荒木又右衛門の遺品(刀、鎖かたびら、お守り等)や又右衛門に関わる浮世絵等などの芸能資料を展示する荒木又右衛門記念館を建立しました。また時を同じくして、鳥取県倉吉市の芸術家・高木啓太郎氏(号は百拙)の作品を庫裏に展示し、観光寺として力を入れるようになりました。広間の奥座敷には庭園もあり、落ち着いたひと時を過ごす事が出来ます。個人拝観の方へも、常駐の観光ガイドによるご案内をさせて頂いています。ご参詣の際には、荒木又右衛門記念館内の受付へお越しください。